あの角の先に、なにが待っているのか。
私にはわからない。わからないから楽しい。
そうか、迷子っていうのは人生と同じなのか。
どうも、青葉飛鳥です。
今回は、『知らない町で迷子になる楽しさ』のお話。
なんとなく、同じような感覚を持ったことのある人もいるんじゃないだろうか。
よろしければ最後までお付き合いくださいませ。
迷子になることがない現代
例外が多くあるのを承知で言うけれど。
2018年現在、この日本で迷子になるというのはそう簡単なことではない。*1
モバイル端末の普及率は9割を超え*2、何かあればすぐその場で地図や自分の居場所を調べられるのが現状だ。
もっというと、文明の利器なんていらない。。
通りかかった地元の人や、コンビニのあんちゃんに道を聞くことだってできる。
さしあたり。文明の利器あり、コンビニなどの常時人がいる場所もある。
迷子にならない、迷子になっても困らない時代なのだ。と私は思う。思いたい。
あえて迷子になる楽しさ
こうした、入り組んだ路地の多い町で迷子になる楽しさよ。
だからこそ私は、あえて迷子になることを提案したい。
初めて訪れる町。どんな人がいるのか、そもそもどんな町なのかよくわからない。
ネットで調べれば、行政のまとめた情報は出てくる。
けれどそれは、あくまで情報でしかない。ただの数字の羅列なのだ。*3
迷子をやるときに必要なのは。そうした客観的で正確な情報ではなくて。
もっとこう、主観的なもの。それは、宝探しのような。
好きなものを見つけようと、足を進めていく貪欲な気持ち。
もっと言えばわがままになるのだろうか。
某ドラマ風にいえば、
「誰にも邪魔されず、気を遣わずに迷子を楽しむ孤高の行為」となるのかな。
ほらそこ、迷子になったから孤高なんだろとかツッコまない。
待っているのはワクワクと、人との出会い
自分の住んでいる町ならば、知らない道はそう多くはない。
あの曲がり角の先に何があるかなんて、調べなくたってわかる。むしろ毎朝通ってる。
もしかしたら、
今日から転校してくる女の子と最悪な出会いを果たす。
トラックに轢かれて異世界へ転生する。
といった出来事が、曲がり角の先に待っているかもしれない。
とはいえ、それは確率としてはかなり低い。
毎日毎日それを期待しながらあの曲がり角を曲がるなんてこと、私にはできない。
だけど、自分が知らない町ではどうだろう。
たとえそれが、写真のような場所でなくても。
東京なんかでもいい。
その先に何があるのか、ワクワクせずにはいられない。
もちろん、何もない場合もある。ただ民家が並んでいるようなところだってある。
それはそれで、「ここには住民が多いのかな。」とか、
「ここに民家が集中してるから、どこかに買い物できる場所があるのかな。」
といった想像をすることができる。
こんなものは、行政の出すデータを見ればいいし、
地図さえあればスーパーでも八百屋でも一発で見つかるものなのだ。
でも、主観。自分の目と足で見つけ、頭で考える。
迷子というのは、現代でいうある種の冒険なのかもしれない。
勇者の剣や毒消し草。ふくびきけんがなくたって冒険はできるんだ。
〆
現代に生きる、いったいどのくらいの人が。
目の前の景色に目を向けて毎日を過ごしているだろうか。
もっとも、これは、自戒でもある。
歩きスマホは危ないことなのでそもそもなところはあるが。
みな下を向き、ネットの世界を見ながらリアルの地を踏みしめている。
なんだろう、このアンバランス感。
たまには、スマホをポケットにしまい。知らない土地で、自分だけの感覚に頼って。
ふらふらーっと迷子になってみるのも、楽しいのかもしれない。
観光地でもいい、普段いかない隣町でもいい。
なにかしらの発見があるはずだ。
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